コラム
0、初めに
思わずニヤリと出来るネタ。「ああ、元ネタはアレか」とクスリと笑えるパロディ。ゲームに色どりを添えてくれるものだと思っています。時代は変わり、ネタやパロディに関して厳しい目が向けられることが多くなった昨今。でもRPG初作品から10年以上「ネタとシリアスの狂い咲き!」をキャッチコピーとしてゲームを作り続けている自分としては、ネタやパロディで笑える要素は無くならないでほしい、というのが本音です。今回はそのあたりを書かせていただければと思います。
目次
1.「昔は良かった」は実はそうでもない
2.〇と△と×を見極める「感覚」
3.「感覚」は鍛えないと身に付かない
4.「つまんない」を甘く見てはいけない
5.難しい時代だからこそ、ネタで勝負したい
6.フリーゲームだからこそ、勝負してほしい
7.最後に「…そうは言ったけど」
1、「昔は良かった」は実はそうでもない
「昔は大丈夫だったのに、今やると色々うるさい」という話を聞きます。でも自分としては正直、本当にそうだろうか?と思っています。
そもそも「昔は大丈夫だった」が怪しいです。実際バラエティ番組やアニメを思い返してみると、昔から苦情が来ているものは結構あったと聞いています。規制されたか、されていないか、大きな問題になったか、なっていないかの違いだけで、実は「今はダメとされるものは、本当は昔からダメだった」のではないかと思うのです。しっかりとした規制がなされていなかったから許された「ように見えた」に過ぎないのかなと。逆もまた然り。「昔は大丈夫だったのなら、きっと今も大丈夫」だと思うのです。
そうは言っても「昔あった設定が時代と共に変更を余儀なくされた」ものがあるのは動かせない事実。一体何が変わったのか。それは、そのネタそのものよりむしろ、それを受け取る側、言うなれば時代の「感覚」にあると思っています。
2、〇と△と×を見極める「感覚」
似たように感じるネタでも、何が良くて何がダメなのか、その境界線は変化します。場面によっても相手によっても、さらに同じ場面・同じ相手でも状況によって変わってきます。さらに、良くないと言われるものにしても「規制するほどでもないけど感心はしない」レベルのものと「何があっても絶対ダメ」なものに分かれる。〇と×の2つではなく、〇と△と×の3つに分かれていると考えています。そしてこの△と×の境界線も実に難しい。刻一刻と変化する〇と△と×に対して、明確な境界線を引くことは完全には「できない」のです。
ではどうするか。それはその場その状況で〇か△か×かを見極める「感覚」が大事だと思います。最近は人権教育の中でも「人権感覚を身に付けましょう」と呼びかけられています。「感覚」という言葉は自分は一番苦手な部類なのですが結局行きつくのは「感覚」です。
3、「感覚」は鍛えないと身に付かない
自分はなぜ「感覚」という言葉が苦手なのか。理由は単純、自分は感覚が鈍いからです。理由に関してもある程度分かっています。それは他人と比べ圧倒的に「感覚を鍛えた量が少ない」から。「感覚」は早い遅い、多い少ないの差はあれど、鍛えないと身に付かないものだと考えています。自分は特に学生の頃は「迷ったらやらない」をモットーにしていました。これは〇なのか×なのか「ちょっとでも迷ったら迷わず×としてやめる」でした。「迷ったら迷わない」というのも変な話ですが。当時の自分の発想としては、△は「中途半端」そのもので選択肢にそもそもありませんでした。
その考え方ってつまんなくないの?よく聞かれましたが「つまんなくていい」と答えていました。何しろ余計なトラブルを起こさなくて済む。そして考える必要が無い。悩まなくていい。とどの詰まりがラクだったんです。「つまんない」より「ラク」が上回りました。実際、それで周りに迷惑はかけませんでしたし、つまらないなりに、ラクに生きることができました。ラクは漢字にすると「楽」ですが、ここでは敢えて使いません。「ラク」ではあったけど「楽しい」とはほど遠いものだったからです。
4、「つまんない」は甘く見てはいけない
自分は割と昔は、つまんなくても穏やかに生きていられればそれで大丈夫、むしろ「余計な心配をしなくていい生きやすい世の中」とさえ思う人間だったので、悪く言えば「つまんない」を甘く見ていました。でも実は「つまんない」は甘く見てはいけないというのが今の考えです。
面白くないゲームをプレイした(させられた)とき、よせばいいのにわざわざ「クソゲー」と煽るのは何故か。「つまんない」からです。「つまんない」は不満、さらには納まりつかないレベルの怒りを産みます。故に世の中全体がつまんなくなると、慢性的に不満と怒りが蓄積されていくと考えています。今の時代がまさにそれ。昔の自分ならさぞ「生きやすい世の中になった」と思っているでしょうが、周りの人間からしたら不愉快極まりない、ストレスの溜まるつまんない時代になりつつある気がします。やはり「面白さ」は多くの人にとって必要な要素だと考えます。
5、難しい時代だからこそ、ネタで勝負したい
時代そのものが「迷ったら規制」に動きつつある、まるで昔の自分の思想が作ったかのような今の時代。だからこそゲームには面白ネタはもっと入れて欲しい。難しい時代だからこそ考え、迷い、悩み、面白いネタをドンドン入れて行きたい、というのが今の自分の考えです。
もちろんギリギリのラインを歩くこともありますから、踏み越えた時にはきちんと対応しなければいけない。相手がいるならきちんと謝らなければいけない。その中で試行錯誤して、面白く傷つかない丁度いいライン、ある種の「妥協点」を探し、見つける。それが今の時代に求められているんじゃないかと思うのです。ちょっと神経を使いますが、そこは踏ん張って「そこを何とか」の精神で。場合によっては制作仲間さんと議論してもいいと思います。事実、ツクール公式フォーラムでこの手の話題が上った時にはかなり白熱した議論になったことを覚えています。それもまた、ゲーム制作の1つの糧になりました。
6、フリーゲームだからこそ、勝負してほしい
規制に縛られ市販ゲームは思うようにネタが使えない今の時代。売り上げに直結するだけでなく、ちょっとした問題が致命傷にもなり兼ねないからです。そんな時こそフリーゲームの出番だと思っています。お金が絡まないので売り上げを気にする必要は無い(ダウンロード数は気にしますが)、失敗しながらでも試行錯誤して妥協点を見つける。時には議論になってもいいでしょう。その繰り返しの中で作者も、そしてプレイヤーも感覚が鍛えられる。それが、面白いゲームを産み、面白い時代を作るキッカケにもなる。「時代を作る」というと大袈裟かもしれませんが、そう考えるとワクワクしてくるのです。そしてフリーゲームにはそれだけの力がある、その力を持つ権利だってあっていい、そう信じています。
7、最後に「…そうは言ったけど」
以前のコラムで「ゲーム制作は適当でいい」と書いていた自分が突然大真面目な文章を書いて面食らった方もいるかと思います。でも適当に作っていても最低限の「絶対に超えたらいけない最後の一線は越えない」は守れているつもりです。だからこそネタとパロディが使える、使う資格がある。
先ほど書いた「ギリギリのラインを踏み越える」がイエローカードなら、「絶対に超えたらいけないラインを最後の一線を越える」はいわばレッドカード。もし、それが守れない、それすら守れない人がいたら、その人はフリーゲーム制作の前にもっと勉強することがあるかなと。そしてその手の人はすべからくこの界隈から去ってもらう。そういった自浄作用のあるフリーゲーム界であってほしいなと思っています。
自分がその「ゲーム制作以前の人」の一人でない事を切に願いながら…。
(夢幻台 Twitter)