自分のためのアイデアと人のためのアイデアはしばしば相反する選択肢として作り手に立ち塞がる。自分の作りたいゲームの像と世間で高く評価されているゲームの像が食い違い、どちらかを捨てなくてはいけない時がある。
自分の想っている世界観を目に見える形で表現したいという気持ちと、出来上がったものを世に送り出して適切な評価を得たいという気持ち、この2つは同時に起こりうる。しかしながら、自分の作りたい通りのゲームを作ったとして、それが人々に受け入れられるかはわからない。世間に取り上げてもらうには、世間が欲している要素と自分のゲームにある要素をある程度合致させなくてはいけない。
その要素をどのように切り分けるべきか。その1面は遊びやすさ、プレイヤーにおける親切さという言葉で表されるだろう。操作の快適さ、UIの見易さといった点に繋がっていて、ゲームの第一印象にも大きく作用している。プレイヤーの事を考えるならば、プレイングにおいてもどかしさを感じさせない工夫をするのは必然として、ここで問題になるのはゲームの一部として意図的な「不便」を加えた場合である。ゲームそのものが困難を乗り越えることを楽しむ娯楽であるとして、その数値的な難易度はともかく、操作性などにおいて上達を要する設定に仕上げる場合は、それがゲームとして必要不可欠な要素に捉えられるように注意を払わなくてはいけない。主人公の操作が難しいことを、作り手はゲームの重要なポイントとして捉えていても、それがゲームの評価を下げる一因となっては元も子もない。
もう1つの側面としてはゲームそのもののコンセプトを挙げたい。ゲームにはジャンルという概念がある。例えばアクションゲームには、プレイヤーが求めるある程度の「アクションゲームらしさ」が存在して、プレイヤーはこれを体験することで満足を得る。逆に言えば、これを大きく逸脱したゲーム(アクションゲームらしくないアクションゲーム)は定石・王道という安定した土台の無い中で評価にさらされるリスクがあるということである。しかしながら、新しい要素や組み合わせに触れる楽しみは確かにあり、それまでの常識を覆すような大胆な内容が行為をもって受け入れられる可能性もある。ここで重要なのは、そういった新しい刺激を求めて導入するフレーバーが、結果ジャンルとしての良さを殺していないかという事ではないだろうか。
上に挙げた例は勿論人に遊んでもらうことが前提にあるのだが、自分のためにゲームを作るという選択を否定するものではない。一般的に公開せず、作り手の世界を有りのままに表現し保持するという目的を持って作られるゲームもある。しかしそういったゲームでも、多くの人に知ってもらいたい、遊んでもらいたいと思ったときには、そのための取捨選択は避けられないように思える。こういった意味でも、私はまだまだ新人である。
(敦賀うたかた 様)


